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ブログ再開しました!


by kanjokyoiku

『Death Note』読了

今更ながら妻の友人から借りた『Death Note』全13巻を読了。ドストエフスキーの小説を彷彿させるかのようなエキサイティングな作品。死神が人間界(世界)に落としたデスノートに名前を書かれたものは死ぬ。デスノートを拾った主人公の夜神月(やがみライト)は「悪を世界から根絶する」という思想からノートを使って「世直し」に励む。夜神の「世直し」行為によって世界中で多発する不可解な死の原因を究明して犯人を逮捕するために立ち上がった世界の警察組織に顔の利くナゾの男L(エル)。この2人の心理戦が物語の核。ざっくりとまとめるとこんな感じである。私などが触れるまでもなく、夜神の幼稚な思想はドストエフスキーの『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフの「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という思想と無縁ではないだろう。こういう人たちに限って自分が「新世界の神」(夜神)であって「非凡人」(ラスコーリニコフ)だと信じている。あー、こわ。

一般的にやたら正義感が強くてマジメな人は怖い。正義感が強いけれどテキトーな人の方が、たぶん生きていても幸せだと思うし友達も多い気がする。自分の正義を盲信しているタイプは人の話を聴くのがあまり上手ではない傾向がある。さらに、自分の正義を押し付ける傾向があるためますます人は離れていく。しかも、残念なことにそういう人に限って思い込みが激しいので、その原因が自分にあるとは気がつかない。軌道修正ができない。そういうのが政治的な力をもっちゃったりすると、松平定信ではないけれどちょっと厄介だ。

デスノートでもう一つ面白かったのは、感情的な人間が片っ端からデスノートの餌食になっているという傾向。私にも「感情的な人ってアウト」という偏見があるんだけれど、デスノートを読み終えて私の偏見にますますドライブがかかった気がした(笑)感情をコントロールできない人は必ず隙ができる。その隙ができた結果、命まで奪われちゃ元も子もない。命を奪われることは現代社会じゃまずありえないけれど、戦国時代とかはあったんだろうなあ。そう考えると、徳川家康の「怒りは敵とおもえ」は重い言葉だ。

このマンガは物語のプロットが複雑なので、読むのにけっこう時間を要してしまった。私には物語の論理展開そのものに矛盾がないかというのを探す(なんだかかなり性格の悪い)傾向があるので、通勤中のバスでもいろいろと考えたりしてけっこう頭の体操になった気がする。まあ、楽しく過ごせたのはよかった(無駄に思考をしたため仕事は遅れたが)。

それにしても米国のエンターテイメントの首都と呼ばれるロスに来てから、なぜか『北斗の拳』とか『Death Note』とかドラクエとか日本のサブカルチャーにドップリ浸かっている(日本のサブカルチャーに詳しい友人が多いというのとリトルトーキョーに住んでいるということが関係しているのだと思う)。仕事の息抜き中のこととはいえ、これはいったいどういうことなのだろうか。米国のサブカルチャーもテレビとかHuluとかで見たりするんだけれど、なんかまだピンとくるものがない。何か一つくらいは米国のサブカルチャーでハマるものを見つけてみたい気がする。仕方ないからドラクエを英語でやろうかな(って何にも解決になってない^^;)
# by kanjokyoiku | 2012-02-02 08:44 | 日常雑記

一月も終わりなわけで

「あっ」という間に今年も残り11か月になってしまった。今月の目標はウルリッヒ・ベックとニコラス・ルーマン、そしてアンソニー・ギデンズというリスクという概念を社会学の立ち位置から分析している先達との対話だったんだけれど、先達との対話よりも友人らとの対話の方が多かったんじゃないかという感じ。先に書いた東北でボランティア活動をされている方々との出会いを含めて(おお、もうあの日から2週間も経過しているではないか!!)、今年も初っ端から出会い多し。

今年初のブログに

>ここ数年は「出会いの年」だったのですが、昨年はネットワークを拡げすぎた感がある>ので、今年は腰を据えて研究に励もうと思っています。

とエラソーに書いているのだけれど、これは一体どういうことなのだろうか。うーむ。まあ、これは私の性格に由来するのだろうけれど。

・・・ということで、軽い自分への不信感と多少の罪悪感を抱えながら今年最初の月末を過ごしているわけだが、私は人との出会いがマイナスだと思ったことは一度もないし、今月お会いした方々からもいろんなことを学ばせていただいた^^昨日に開かれた母校の校友会でも、偉大な大先輩のお話をうかがう機会があって非常に刺激を受けた。人に恵まれているのは間違いない。これはとても嬉しいことだ^^

ただし、それが仕事(研究)を遅らせていい言い訳にはならない。そんな言い訳が許されるのはあくまでもアマチュアレベル。なぜなら、プロフェッショナルというのは目標を超えてこそ名乗れるものだから。私が書物を通して対話を重ねている先人たちもプロフェッショナルであり続けたからこそ、私なんかよりもはるかに上のステージで闘っているのだ(ルーマンは2012年時点で逝去しているので「闘った」が正しい)。自分の人生のステージをあげるにはプロフェッショナルであり続けることが十分条件ではなくても必要条件だと思う。

また、プロフェッショナルであり続けることから生まれる副産物を通して、これまでお世話になった方々に恩返しすることだってできると思う。これまでの出会いに感謝しているならその方のためにも毎日の仕事に対して真摯に向かい合わなければならない。

人間が一つのことに打ち込めるのなんてせいぜい20年やそこら。いろんな学者の作品を眺めてみても、傑作というのは脂の乗り切ったときにしか書けない。いろんな人に出会って、対話の中から学ぶことは重要。でも、毎日の仕事の目標を超えることは長い目で見てもっと重要。

1月は敗戦。敗因は自壊。2月に巻き返すためにも残りの1月を粘ろう。
# by kanjokyoiku | 2012-01-30 01:19 | 日常雑記

内省

今週は、被災地の状況を伝えるというボランティアをしている方々によるロサンゼルス講演のお手伝いをさせてもらっていた。とても素敵な出会いがあったし、いろいろと学ばせていただいた^^

が!!

仕事が遅れすぎている・・・(冬休みに自分に課した宿題は終えたけど)。今週予定していたアンソニー・ギデンズやニコラス・ルーマンとの対話(リーディングのことです)も計画通りには進まず。私は「目標を超えてこそプロ」というレベルを自分に課しているので、目標以下の仕事など私の基準ではプロのレベルではない(=お金を受け取るに値しないレベル)ということとなる。私はグロス先生をはじめとして非常にいい先生に恵まれていると思う。これら先生方の教えを受け続ける権利を放棄しないためにもプロであり続けることが義務であると思う。

自分の定めているプロのレベルを維持するためには工夫が必要だ。ここ数日は「仕事が遅れすぎている」と焦りつつも、なぜ自分の仕事が遅れているのかを第三者的な立場から考えてみた。現段階における私の結論は一つ。私はけっこう切り替えに時間がかかるということ。ボランティアに関係することを終えたらサクッと仕事モードに切り替える。こんな簡単なことにもかかわらず、この切り替えがきわめて遅い。この切り替えが遅い原因はやはり自分が仕事に対してまだまだ本気ではないからだと思う。朝起きて「正午までの目標は何か」「午後5時までの目標は何か」・・というように目標を立てその実現に向けて取り組んでさえいれば、切り替えに時間がかかるなんてことはないはず。なんだかんだいって心構えと工夫なのだ。

「アネンバーグで実力をつけることで、もしかしたら人生を逆転できるかもしれない!」と思ったあの日のこと。そして、今たくさんの多くの優秀な先生方や仲間が応援してくれていること。こんなチャンスめったにない!!!私にとって今が一番の働き盛り。そして、幸運なことに私は今、何をすべきかちゃんと把握している。

もう一度、原点に戻って仕切り直そう。
# by kanjokyoiku | 2012-01-15 03:06 | 日常雑記

西洋史を学び直す

さて、グロス先生の初回の授業。一言でいうと、

“AWESOME(最高)”(バカっぽいので私はあまり使わないけれど、あえて使ってみる)

どうやったら、専門性と幅広い教養をここまでのレベルに高めることができるのだろうか。うーむ。ハードルが高すぎるぞ。受講生は映画や音楽学を研究している博士課程の学生もいたりして、けっこうバライティーに富んだ感じ^^私はクラシックが好きなので仲良くなったらいろいろと教えてもらおう!

グロス先生のご専門は社会心理学というだけあって、先生のアプローチは社会学や歴史学のアプローチ(私のアプローチ)と親和性が高い(当然のことながら、米国の心理学-統計に基づいた心理学-とは親和性が低い)。しかし、授業の内容が西洋を中心とした芸術なので西洋史や宗教の基礎知識がないとまともについていけない(ということが少なくとも初回の授業で明らかになった)。

私は東アジアの歴史を少しかじったものの、西洋史の知識は偏差値60前後の高校生レベル。久しぶりに「Peace of Augsburg」(アウクスブルクの和議:プロテスタント(ルター派)の容認決議)とか出てくると、「これって16世紀半なんだけど、何年だったか忘れた」とか大雑把なことしか覚えてない(正解は1555年)。この程度の情けない知識の私だけれど、私だってカタチ上は日本の高校をちゃんと卒業したという誇りがあるので悔しいから復習している。まあ、世界史を復習する機会なんて人生にそうあるわけでもないし(別に知らなくても生きているし)、贅沢と言えば贅沢な感じ。基礎学力をつけて先生からできるだけたくさん吸収していきたい^^

それにしても、高校の世界史の教科書をロサンゼルスまで持ってきておいてよかったー(ちなみに世界史年代暗記法の教科書まで家にあったりする^^V)。傍から見たら30過ぎたオッサンが高校の世界史の年代暗記法を読んでブツブツ言っているのって相当アヤシイ気がするのだが、「better than never(やらないよりはまし)」という気持ちでガッツリと復習しよう。
# by kanjokyoiku | 2012-01-11 01:03 | 日常雑記

今日から新学期!

私の知っている人の中でもっとも運のよい妻のとんちゃんが風邪をこじらせてしまったことが影響してか(?)、ラスベガスでは戦果を挙げることも叶わず。まあ、ベガスを経験できたのはよかったかな。ただし、私の期待値があまりにも高すぎたせいか、昼のベガスはあまり面白くなかった。ベガスはやはり夜の街ですな。私のイメージではストリートファイターⅡのバイソンみたいなのが街中にウロウロしているというものだったんだけれど(なわけない)、昼も夜も性風俗の広告を配る方たちばかりが目についた。子どもにはあんまりよろしくない環境。そもそも、ラスベガスというのはバグジー・シーゲルという今でいうギャングがフラミンゴ・ホテルを砂漠の真ん中にドカンと立ててから今のカタチへと発展している。都市の起源が都市の文化にどのような影響を及ぼすのかというのは推測のレベルでしか語れないものの、実際にベガスを体験してさもありなんといったところかな。

博打のなかでは断トツにルーレットが面白かった^^ドストエフスキーの『賭博者』で「0に賭ける」というシーンがあるけれど、私は過去の目の傾向から主に攻めてみた。スロットでガチャンガチャンとやるのもいいけれど、私はルーレットのように自分の瞬時の直感で攻めたり引いたりしながら長くダラダラとやるゲームの方が好きみたい。あと、私がこんなところに書いてもどうなるわけでもないが、ぜひカジノにも禁煙室をつくってもらえればと思う。私のようにタバコを吸わない人やとんちゃんのように風邪をひいている観光客にはタバコくさいカジノはけっして心地よいところではない。

という感じで帰宅して今日から新学期!
しかも明日はグロス先生の講義!おおおお!!

今学期は3つの講義を受講する予定。

1つ目がわが師匠・泣く子も黙るグロス先生の「芸術、芸術家、そして社会」という授業。私は芸術とは無縁の人間であるのだが、どういうわけか周囲には芸術に携わっている人が多い。私は視覚文化の政治性について関心があるのでこの授業を受講することにした(あとは、もちろんグロス先生から学びたいというのもある)

2つ目が社会学の先生による危険社会論の講義。3.11以降リスク・コミュニケーションへの研究の軸を移していったことは前のブログで書いたと思うけれど、その私の関心にドンピシャの講義が社会学の授業で開講されるというので受講(グロス先生から受講するように勧められたというのもある)。この講義は主に社会学を専攻している学生が受講することもあって、彼らの議論についていくためにも社会学の基本文献を読んでおく必要がある・・ということで冬休みに社会学の基礎文献と対話を重ねたってわけ。この講義から最大限学べるかどうかはやはりこれまで私が冬休みにしてきた準備とこれからの準備にかかっていると思う。私は社会学専攻の学生に比べると、社会学の基礎文献との対話をしてきていないので、これからも準備が必要。というわけで、社会学専攻の学生に比べるとハンデはあるものの、努力をすればするほど彼ら/彼女らから得られるものも多い。どの授業でも共通することだけれど、私を除く受講生全員が自分の先生のような気持ちで彼ら/彼女らから学んでいきたい。

3つ目がオンライン・コミュニティーの講義。これはまだ履修登録していないんだけれど、第1回目の講義が魅力的だったら受講してみようかなと(Facebookの「友だち」と社会共通資本(social capital)の関係に関する論文が、第1回目の講義のリーディングアサインメントで挙げられていた^^すでにけっこう面白そうな感じ!)今後の人類のコミュニケーションを研究するにあたって、オフラインのコミュニティーだけを研究対象にしても得られるものが限定されてくるのは間違いない。また、私がどのような博論を書くにせよオンライン・コミュニティーの存在には必ず触れると思う。先生方も非常に魅力的なので(この講義は2人の先生によって開講される)、ぜひ受講したいもの。

そして、毎回恒例ながら(?)学期の始めにシラバスを見てヨダレをたらしている私^^この春学期に、先生方がこれから伝えようという知識を私はどれだけ吸収できるだろう。この春学期を終えたとき、今の私が見えていないものをどれくらい見えるようになっているのだろう。きっと、今の自分が想像できないくらい夏の私は成長していると思うし、学問的にも実力をつけていると思う。無限の可能性が溢れる2012年春学期。いよいよ明日からスタートです^^V
# by kanjokyoiku | 2012-01-10 01:17 | 大学院生活